「洗心」千字コラム mini essays from Senshin主に西蓮寺報『洗心』からの転載なので、日付等は最新ではありません。また、視点は仏教(真宗)への関心からのものです。[1]まであります。[8−5]錦織寺について−4、3、2、1[4]現代社会と仏教[3]こころとからだ[2]イスラムという宗教[1]西蓮寺の御縁 |
[8]錦織寺について−4−慈澄じちょう上人の頃−− |
今から650年ほど前、存覚上人の子息(綱厳)が錦織寺を継ぎ、慈観じかん上人となられた(1351年)頃から、錦織寺は、お念仏の道場として発展して行きました。
親鸞聖人にお念仏の教えは日本の各地に弘まりつつありました。特に、本願寺に蓮如上人(1415--1499年)が出られるに及んで、各地にお同行が増えました。仏光寺の流れにある多くの方々も蓮如上人の下へ帰参されました(後$この流れが江戸・明治期に興正寺・興正派となります)。近江・大和・摂津・河内などにおられた木部門徒の方々も、勝慧という方に率いられて蓮如上人の下へ帰参されました。明応2(1493)年のことです。このできごとの後、錦織寺は大変さびれたようです。
しかし、その翌1494年に京都の広橋家から入寺された慈澄上人(錦織寺第十世)の下で、錦織寺の新たな歴史が刻まれることになりました。慈澄上人は錦織寺の復興に努力され、1569年に笠原の仏眼寺に隠居されました。ちなみに、当西蓮寺の開基とされる西方(覚翁)が慈澄上人から法名を戴かれたのがこの永録十二(1569)年です。
今から五百年ほど前のこの頃は織田信長の時代でもあり、真宗門徒(一向宗)にとって苦難の時期でもありました。石山本願寺(後その場所に大坂・大阪城)の一向衆と対決した織田信長の本拠は近江安土です。錦織寺のすぐそばです。そのような事情も関係したのか、錦織寺は二宗兼学(真宗と浄土宗の二宗を学ぶ)と称する時期もあったようです。また、伽藍が炎上するという災難もあり、無住職になった時もあったようです。再び、錦織寺が復興するのは、江戸中期(1726年に錦織寺法嗣となられた良慈りょうじ上人)の頃です。
[7]錦織寺について−3− |
錦織寺の長い歴史の中には、いくつかの山[特に栄えるとき]があるようです。
ア.慈観じかん上人の頃
イ.織田信長などの時代の慈澄じちょう上人の頃
ウ.江戸時代の良慈りょうじ上人の頃
エ.明治から昭和の孝慈こうじ上人の頃 などです。
存覚上人の子息(綱厳)が錦織寺の住職になられ、第五世をなのられました。親鸞聖人のお弟子の流れ[横曽根の性信上人−−愚咄ぐとつ・慈空じくう上人]と、親鸞−如信−覚如−存覚[−慈観]という血脈が一つになったという意味からです。今から五百年余り前の時代のことです。
覚如上人は、親鸞聖人の御廟が本願寺に発展した頃の方で、その基礎を築かれた方です。その時代は、お念仏の教えが日本の社会の中に根付いて真宗が見えるようになった頃です。門徒、一向宗、無碍光宗などと呼ばれるようになった真宗の流れが、法然門下の他の流れと区別されて形が見えるようになった頃です。覚如上人と存覚上人は真宗の教えをわかりやすく説かれたことでも有名です。「もろもろのぞうぎょうざっしゅじりきの・・・」という改悔文[がいけもん]は存覚上人が作られたものと言われています。
第六世は慈達上人 第七世は慈賢上人という方です。昔は、錦織寺という由緒ある寺院の後継者であっても、京都の公家の養子(猶子)になってから継職されるしきたりだったようです。いずれも大納言広橋家の猶子になっておられます。
[6]錦織寺について−2− |
錦織寺(きんしょくじ)という名前は、その昔、天女が妙なる(蓮)の糸で錦を織って本尊に供えたので、その半分を時の朝廷の献上し、「天神護法之寺」という寺号を賜った、ということに由来します。
さて、親鸞聖人がご滞在になった後、天安堂(錦織寺)はお念仏の道場になりました。多くの方々によって護られ伝えられましたが、親鸞聖人の直後の方々のお名前は伝えらていません。百年ほど後の時代から記録が残されています。
愚咄ぐとつ・慈空じくう、というご兄弟の頃から錦織寺の歴史が知られるようになります。この方々は、親鸞聖人の直接のお弟子である横曽根の性信(しょうしん)の流れを承けると伝えられます。親鸞聖人のお弟子は関東にたくさんおられました。それぞれの地名によって、高田門徒(後に高田派を形成)や荒木門徒(後に仏光寺派など)が有名ですが、横曽根の性信という方は、多くの高弟方にもまして活躍をされております。
愚咄上人は、大谷廟(本願寺)第三世の覚如かくにょ上人と親しく、愚咄上人の娘が覚如上人の子息である存覚(ぞんかく)上人の内室となっておられます。そのようなご縁からか、後に、存覚上人の子息(綱厳)が錦織寺の住職になられました。性信上人以来の法統と、親鸞−如信−覚如−存覚という血統が一つになったという意味で、錦織寺第五世を名のられ慈観じかん上人となられました。今から五百年余り前の時代のことです。応永二六年に八五歳で示寂されました。
[5]錦織寺について−1−錦織寺伝絵記−− |
昭和六〇年に勤まった法要の記念として出版された「真宗聖典」(赤茶色の表紙の聖典で、皆さんのお内仏にあります)の二〇七頁以降に錦織寺由来が書かれています。その内容の元になっているのが「御伝記」です。
昭和六〇年の法要は「本山錦織寺創始七百五十年念報慶讃法会」でした。錦織寺は親鸞聖人が来られて以後に真宗の本山となったのですが、お寺としては、それよりも古くからあります。
湖東の一隅に「一夜にして一丈六尺に成長した松の霊木」の辺NDXに、当時の延暦寺(えんりゃくじ)の慈覚大師が弟子の円智にお堂を建てさせたと言われます。天安二年(八五八年$いまから一一三六年前)のことなので、天安堂となりました。そして、毘沙門天が安置されたこのお堂のまわりに人里が生まれ、木部きべと呼ばれるようになりました。
そして、約三百八十年の後、親鸞聖人が関東から京都へ帰られる途中に、この木部の天安堂に滞在されることになりました。霞が浦の湖底から漁師が引き上げたと伝えられる阿弥陀如来像(聖人が背負ってこられました)がご本尊となりました(毘沙門天像は脇座へ御移りになりました)。それがご縁で後に真宗の本山になったのです。
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